2016/05/22

memories of "shiga zin"

日本のスキージャーナリストの先駆者、志賀仁郎さんが84歳で亡くなってはや2ヶ月が過ぎた。
亡くなったのは奇しくも全日本スキー技術選の最終日だった。
日本のスキー界を憂い、いつも辛口の提言を発信し、またスキー技術の評論にも一家言持っていた志賀さんのことを、近しい者たちははんば親しみをこめて「シガジン」と呼んでいた。

昨日、白馬八方で行われた「志賀仁郎さんを偲ぶ会」に行ってきた。
志賀さんが愛用したニコンが特別にチューニングしたカメラ、それにFIS国際スキー連盟から顕彰されたトロフィが大きな遺影とならんで祭壇に置かれた会場にはスキー界の重鎮から若いスキー指導者たちまでが一堂に会し、さながら現代日本スキー界の縮図の様相。不肖佐助庵が存じ上げない顔など一人もいない会合だったから挨拶を交わす度に緊張の連続で、直会(なおらい)でいただいた酒の味などほとんど覚えていない。SAJ専務理事の古川年正さんとは数年ぶりに言葉を交わしたにもかかわらず、つい昨日会ったような気がした。最近世間を賑わした事件で連日大メディアに突っ込まれて苦渋の表情を浮かべて記者会見する古川さんの姿をTVのニュースで目にしていたからだった。

ダンディでフェミニストだったシガジンのこと、挨拶では艶っぽいはなしも出てきたのだったが、会場がおもわず和んだ1970年代、フランス黄金期に活躍した超美人レーサー、ファビアンヌ・セラの一件など明らかにほら話。佐助庵がシガジンから直接聞かされたオーストリアチームの女子レーサーとの一件など、当時大笑いしたものだった。だってレース会場で目にする件の女子レーサー、まさに男と見紛うほどの女丈夫。「日本男子の沽券にかかわって……」とシガジンは言っていたが、これもどう考えてもあり得ないほら話だった。さすがに、最後までシガジンに添い遂げられた夫人も会場で苦笑いしていらっしゃった。

帰途偶然ご一緒した平沢文夫さんともスキー技術のはなしが続きます。意外だったのはかつて日本のスキー技術を牽引した基礎スキー界の理論派、平沢さんにして「わたしは今も昔もスキー技術に関してはワールドカップレースの極限の技術しか見ない」という言葉。「ただみんなの理解のしかたが間違っている」と。そしてこまごました技術論を聞くにつけ、佐助庵も撮り終えた写真のチェックのときに同様のことを思っていたところもあって、まさか基礎スキー界きっての理論派から同じ言葉を聞くとは夢にも思わなかった。

帰り着いた鎌倉は突然の驟雨。
「ぼくのはなしはホントなんだよお」というシガジン猛抗議の涙雨だったかもしれません。

けさの佐助庵のアジサイ、ひとつだけ色づいてきました。